ぱすたけ日記

日記っぽいのを書きます。

『君の名は。』にすんなりと感動できなかった僕について正直な感想を書いてみる

新海誠監督最新作『君の名は。』を観た。


「君の名は。」予告

新海誠監督ということで、良い感じに感動させてくれるんだろうなと思って身構えていったところ、全然そういう感情になれなかった。

だけど、Twitterに流れてくる感想やブログの感想を見ると、どうやら感動できて余韻もヤバイらしい。心配になってきた。

そういや、前回シンゴジラを観に行ったときもそういう感じになったな・・・

少なくとも新海誠監督がパンフレットで語っていた『誰もが楽しかったと思える作品』だったとは思えなかった。自分がひねくれているのかもしれない。もうちょっと自分がどういうスタンスで劇中を過ごしていたか、各々何を思ったか振り返ってみたい。

このブログを書いているのは封切り日の深夜である。さっきまで飲んでいたので酔った勢いで文章をしたためている。周囲に観た人もほぼいないので意見交換もできないでいる状態なので、是非はてブTwitterなどで感想を教えてほしいです。「新海誠作品を観ていたら分かるだろ」とか「お前の見方がひねくれすぎている」とかそういうdisも歓迎であります。よろしくお願いします。

正直、もう一度一通り新海誠監督を見直すと違う見方が出来るかもしれないので、もう一度チャレンジしなおそうという気分はあります。だけど、今のこの感じも書き残しておきたいので、書いておきます。

<追記>

続編書きました。

</追記> 以下、ネタバレを含みます。

画面の絵がキレイとか、RADWIMPSの曲がイラつく*1とか、そういう予告編や前評判から知っている分かりきったことはどうでも良くて、実際本編を観た話をしたい。

トーリーラインは軽やかに且つダイナミックだったと思う。田舎と都会の対比、彗星について、神社について、先輩との色恋沙汰などなど要素も多いながらに、どれもしっかりと拾い、伏線として機能していて、そういう点においては申し分なかった。全てごちゃごちゃした語りもなく、登場人物たちのセリフや画面でしっかりと物語を紡ぎ魅せていくという部分も良かった。

RADWIMPSの曲に載せながら、パパパパと切り替えつつ2人の声が重なり、行動はズレながら日々を過ごしていく様子が流れるように表現されている部分はTVCM用なのかって思わなくもなかったけど、他のパートとの対比やあの部分でズレをしっかり表現しながら2人の性格やお互いへの接し方をクロスオーバーさせながら見せていくのは非常に良かった。あのパートがないと前半部分のどうなっているか分からないなりに各々が探りを入れる件とのメリハリがなかったと思う。

それぞれ脚本やストーリーテリングは良かったのだけど、それでもいまいち没入できない自分が居た。

僕がそもそも身構えて一歩引いた視点で見始めたのもあるのかもしれないけど、実際感動したり余韻を感じるにはある程度の没入感を作品に大して感じることが必要だと思う。そういう意味で『君の名は。』はとても高度というか困難な作品だったと思う。次々と視点が変わる。「三葉(本人)」、「三葉(滝)」、「滝(本人)」、「滝(三葉)」の4視点が少なくとも構成上登場していて、それを的確に認識して作品に入るというのが凄い難しかった。それにタイムスリップ的な要素が突然登場して時間軸まで変わっていたことが発覚した辺りから、完全に没入できなくて引いて観てしまっていた。実際、あれに没入して観るの難しかったと思うし、第三者的に観たら、そこまで感動とか出来ないと思うんですが、どうなんでしょう。マジで教えて欲しい。

タイムスリップというか時間軸を超越した事象という部分も重要な要素なはずなのに、それまでの前振りも特になく突然発覚して*2その辺からドンドン違和感が拭えなくなった。宮水家の家系、特に母親についてくらいはもう少し具体性を見せても良かったんじゃないかと思った。あれだとただ父親が異常な人間にしか見えない。実際は宮水家の血筋が特殊なのだから、その辺の事例や過去のことについて回想なり、祖母のセリフなりで語られても良かったのではないか。あれでは父がめちゃくちゃかわいそうだった。みつは(滝)が行った時には聞き入れられなかった彗星落下の件について何故あのタイミングで聞き入れられたのか、その部分について語らないと父が良い人間だったのか私利私欲だったのか適当だったのか分からない。

本当は突然ではなくて時間を超えるためのヒントは作中に出てくる。「口噛み酒」や「組み紐(「結ぶ」という単語)」など。さらに『口噛み酒』は己の半分であるということも。伏線はあらゆるところにあった。後半開始直後のロードムービーのようなシーン。奥寺先輩は本当に悪い女の人だなと思いながら、滝とみつはが会うのを待っていると、そこで知らされる「糸守町」の3年前の隕石落下事件とそれによるみつはの死。この部分まではスムーズに行ってて、各シーン違和感なかった*3のに、急に時間の断絶が出てきて、そこまで突き放すのかって思った。ただでさえ地理的距離も離れてるのに、さらに時間距離も追加して追い打ちを図られてた。あー確かにこの文章書いてて思ったけど、もしかしてこれを超えたという奇跡に人々は感動するのか?なるほど。

こうしてみると僕自身が何故か異様にフィクションに不寛容になってしまっただけなのではないか。フィクションはそういう前提で観ないといけないのではないか。じゃあお前は8回も9回もガルパンを観に行っているが、ガルパンのあの戦車戦についてはどう思っているのかなどなどのご意見が登場すると思うと気が気でない。何故このような状況に自身が陥っているのかとにかく知りたい。

このままでは来月公開の『聲の形』も不寛容な状態で観てしまうのはという不安がある。頼む。助けてくれ。

関連書籍を順次読みつつもう1度劇場に行こうと思っています。

*1:これは僕が思春期の頃、とにかくRADWIMPSの曲が嫌いで仕方なかったことに由来する

*2:どうやら要素はあったらしく、ニュースでの彗星の扱いであるとか、2人ともiPhone5を使っていたとかそういうシーン

*3:気付いてないだけで3年の月日の違いを感じさせるシーンあった?糸守町は田舎だからそこから3年前かどうかを判定するのはムズいか